3月8日、散髪の日

3月8日、散髪の日💈

今日は母の命日🕊️

母が亡くなって22年が経ちました。

母が当時15歳の時に母(僕の祖母)

を病気で亡くして、じいちゃんが再婚したのが

僕を育てたばあちゃん。

母は再婚が許せなかったらしく、

17歳で家を飛び出した。

大阪でホステスをして生計を立て

そこで出会ったのかな。そこは聞いたこと

ないけど、その人との間に生まれたのが僕です。

入籍してまもなく父は帰ってこなく

なり、1人での育児。離婚。当時母は24歳。

生活をする為に、ホステスをつづけ

僕を寝かしつけてから仕事にいく毎日。

度々、僕は夜中目を覚まして母を探しに

外に行き警察に補導されていました。

色々葛藤があったと思うけど、

飛び出した実家に僕をつれて帰った。

じいちゃんは母をどなりつけていたけど

僕のことは可愛がってた。

じいちゃんはその日に母とは絶縁。

僕はじいちゃんと再婚したばあちゃんの家族に

養子に入る事になりました。

当時、僕は4歳。

母と再会したのは7歳。

じいちゃんの葬儀の日。

それからは年に一度

母は僕と会う事を許されました。

12歳くらいかな、ハッキリ覚えてないけど

母が「将来は何になるの?」

と聞いてきたのを覚えています。

僕は「散髪屋」と答えた。

ばあちゃんと2人で暮らしている僕は

大人の男とお話しするのは、

学校の先生、自転車のおっちゃん、

散髪屋のおっちゃん、少年野球の監督

友達のお父さんで、その時1番お話し

できてたのが散髪屋のおっちゃんだった。

高校の進路を決めるタイミングで、

母から電話があって

「専門学校のお金を貯めてあるから、

学校に行きなさい」

と言われた。今でもはっきりと覚えています。

じいちゃんの年金生活で

専門学校に行く選択肢は初めからなく

どこかのお店で働きながら通信学校に

通うつもりでしたが、

専門学校行くことができました。

母は僕が中学生の時に癌を発病。

僕は京都から母が住む大阪に引っ越し、

母と闘病生活を一緒に過ごし

ながらグラムール専門学校に通い

約1年間一緒に過ごし、母が亡くなりました。

あれから22年。

自分の為だけにやってるのなら、

EIGHTもとっくに辞めています。

母からもらった想い、お金、家族、仲間

EIGHTに通っていただいてるお客様

そして僕たちに関わってるすべての人のために

今もやっています。

僕も夢を与えられたようにこのブログを読んで、

誰かの何かになれば幸いです。

精一杯人生を使い切りたいその思いです。